本社集約構想の失敗
食品会社勤務(53歳) ■度重なる営業方針の変更 私は地方の出身で一九六三年に上京し大学生活を送り、そのまま東京で就職しました。六年間営業の仕事をして脱サラ、友人とスナックを経営しましたが、水商売は肌に合わず二年で店をたたみ、そして七四年、食品会社の東京駐在員として中途入社、四?五年で営業課長となり関東甲信越地区を担当しました。八四年営業所長として仙台に赴任、東北六県と北海道を統括しました。 四年後、大阪支店の次長として来阪、二年後に大阪支店長になりました。その後、社長の発案で全国にあった営業拠点を廃止、営業と受注の窓口を一元化する本社集約構想が発表されスタートしましたが、結局失敗に終わりました。本社集約を推進した人間は責任を取らず、商品部長が退社し、私も大阪の責任者をはずされ、再び東北、北海道の担当となり、毎週、大阪付東北・北海道の出張を繰り返しました. 九四年の秋口、社長と面接した折、「今後は問屋を相手にしている時代ではない。大手スーパーが日本中の小売りを制覇すると思う、だから営業の戦略を変える必要がある」という話を聞かされ、営業部から独立した新しいスタッフ部門構想を打ち明けられ、私は新任の部長に抜擢されました。 ■効果表 我々はスタッフ部門として割り切って活動していたのですが、営業本部長は我々を自分の管理下に置きたくて、仕事の中身をチェックするのではなく、東京支店に月に何回立ち寄ったか、旅費を誤魔化していないかを報告させていました。会議では代案もないのに、ひたすら反対派に回り、協力や助言など全く聞かれませんでした。会議は社長、副社長が出席しているにもかかわらず、営業本部長の理屈に合わない個人攻撃が続き、スタッフ部門である我々が反対にチェックを受け、社長も注意しないので中途半端な立場に置かれて行きました。 社内の考課表には、今まで付けられたことも無い低い点が付けられ、営業よりハードな仕事をしているにも関わらず理解されないことに苛立ちました。考課について上司の副社長に聞いても明確な説明もなく、部の発案者の社長に聞いても答えてもらえませんでした。 結局、営業本部長が裏工作していることが見えてきました。そこで社長に面接した時「営業部門と張り合うような仕事をさせて、管理部門の私たちの考課を営業本部長に任せるのは公平さに欠けます」と抗議しましたが、取り合ってもらえず割り切れない気持ちにさせられました。 その直後、組織変更があり営業本部長が専務取締役管理本部長となり、私の直属の上司になると発表されました。専務は私を無視して直接私の部下に指示をし始めました。 九六年一月、社長に対し「専務のやり方は余りにもえげつない、専務の下ではついていけない」と上申しました。その回答として二月になり専務より呼び出され、三月から関連の運送会社へと出向を命じられました。二年間の出向契約が結ばれました。この時点で年収が一〇〇万円減らされてしまいました。九七年六月に専務より本社に呼び出され今年一杯で辞めて欲しいと退職勧奨を受け、その折に、「君の評価は運輸会社でも三〇点以下だ」と言われ、考課表での低い評価を解雇理由にしようとしている事が分かりました。 二年ぶりに本社への復帰が決まり、九八年一月五日、二時間以上かけて本社に出潮しました。仕事は菓務用の新規開拓が専門の部署で部員は私を入れて四名です、出向前の部下が上司になっており、机の位置が丁度逆になっていました、何とも言えないおかしな雰囲気でした。 そして総務より、今月から降格になり減給される、年収で二〇〇万円以上の減棒になるという説明でした。総務担当役員の常務に「退職勧奨に応じないので降格、減給という報復人事をするのですか、役員面談でも何でもしてください、出るところに出て訴えます」と告げ「降格辞令を書面で下さい」と申し入れしました。常務からは「出向先から戻る時、降格され減給されることは納得したから戻ったんだろう」と訳の分からぬ説明があり、「その様な説明は聞いてないし、社長も本人が納得しないうちは降格や減給をしないと約束したはずです」と私は報復人事に対する怒りを吐き出しました。 ■戦うのは自分自身 一月一七日、管理職ユニオンを訪問し正式に加入の手続きをしました。「戦うのはあなたですよ、私たちはそのお手伝いをするだけです、分からないことは組合に顔を出して色々な事例を見て聞いて勉強してください」と、不安な気持ちで訪れた私を勇気づけようと誰かとなく声をかけてくれました。私は「やるぞ」と秘かに心に誓いました。 その日のうちに、会社に対し一方的な降格、減給の撤回を求める団交の申入書を作成し、送付しました。その後、ユニオンから書記長他四名、会社からは専務以下三名が出席して一月末に第一回目、二月末に第二回目の団交を致しました。結果として会社側は、退職勧奨を認めず、作為に満ちた考課表を基に駄目社員のレッテルを貼り、降格減給されるのは当たり前、処分は社内規定の手続きを踏んだ正当な措置であるとの態度を変えようとはしませんでした。 ■抗議行動 四月になり本社工場前でアジ演説とビラ撒きの抗議行動をすることを決めました。決行当日は前日から大雨強風注意報が出されており、不安な気持ちで迎えました。朝四時に車を走らせ協力して頂ける同志の家を廻り総勢一〇人で向かいました。七時二〇分に本社前に到着、従業員が出社する頃には雨も上がり、正門前には青の管理職ユニオン旗が風になびいていました。八時ちょうどに抗議行動をスタート、書記長のスピーカーによるアジ演説が始まると、総務の担当役員が飛び出してきて抗議を中止するよう言われ小競り合いになりました。しかし、組合員の勢いに押され担当役員は引き下がりました。一〇〇枚以上用意した抗議のビラもほとんどの従業員に手渡され、無事に目的を果たせました。 もちろん私もマイクを持ち、持っていった原稿を読み上げました。読み終えると溜まっていたものがスIと抜け落ちた感じがしました。後から聞いた話ですが、この抗議行動は会社にとって非常に脅威となり効果があったようです。 ■『賃金仮払い仮処分申し立て 六月末には〝賃金仮払い仮処分申し立て〃の裁判を起こしました。裁判が始まると会社は報復手段として、営業の私一人に直行直帰禁止の業務命令を発令して活動範囲を制約して仕事の成果を上げさせないようにしました。裁判長日く、「職種や職務を変えて、降格や減給をする事は、必ずしも違法とは言えないのですよ」。言葉の雰囲気から、この種の争いは裁判になじまないので和解しなさいtという感じでした。 主張書面のやり取りでは、圧倒的に当方が有利と思っていたのに、裁判長の言葉は期待はずれの内容でした。そして双方が席に着き、和解の意志が有るのか確かめられ、会社側に和解案を近日中に提示するよう指示がありました。それ以降は双方の弁護士が話し合いを行い会社側が、ほぼ私の要求を呑んだため、私が退社するという形の和解が成立しました。私が退職を決めたのは私なりに精一杯自己主張Lt言いたいことは全て伝えた。 絶対認めないと言っていた、和解条件を引き出せた。通勤に二時間半もかけることが苦痛になってきた。営業をしているうちに、自社商品に自信がもてなくなった。体力、気力が残っているうちに、転職をしたい。 という事でした。早く解決して、心身共に楽になりたいという安易な選択だった事も否定できません。常日頃、ユニオンの幹部の方から、「100%の勝利というのはあり得ない勝ち負けより、どのくらい満足できたかが大切なことである」と聞かされていました。その点では、自分の出した結論には満足しております。 ■闘いを終えて もしも、管理職ユニオン関西に加入していなかったら、会社と正面切って対決できていただろうか? 「決断して行動するのは自分自身、ユニオンはそれをバックアップするだけ」と言われて、どんどん前進Lt行き着くところまで来ました。振り返ると、反りの合わない上司と何故、上手に付き合えなかったのか?私は会社の言うとおり、本当に不必要な人間なのか?-- 気に掛かることはたくさんあります. 妻と娘二人の四人家族ですが、子供がまだ大学生でしたので、このまま首になったら中退してもらうことも話し合いました、そして学費以外の小遣いはアルバイトでまかなってもらうこ とにしました。 たくさんローンの残っているマンションの売却も考えました。自分の意地を通すか、家族のためにこのまま我慢するか、少しは迷いましたが前者を選びました。個人の自主性を尊重し、会社と正面から堂々と戦うことを教えてくれた管理職ユニオン・関西は、大きな心の支えとなりました。これから再就職という大変な試練が待ちかまえていますが、転職が良かったか悪かったか、その答えはこれからの私自身の生き方にかかっています。 |
