 |
役職定年者への減給と出向
食品製造会社大阪営業所勤務安田英二(56歳)
■役職定年制度
私の勤める会社では、五五歳をもって管理職者のお役目ご免とする、役職定年制度は六年前に導入されました。それも当時の役職者には一言の意見も聞かず、企業内の御用組合が六〇歳に定年を延長する条件として取り入れられた。法より早めに導入することが、企業イメージ、採用にメリットありと考え実施したにもかかわらず、後日の裁判では、六〇歳まで働けることを有り難く感謝しろと会社は陳述していた。
この制度のもと、私の役職定年を迎える七ケ月前、突然後任者が私の管轄部署に赴任してくることになった。現存営業部長がいる所へ、同じ所長の職責者として配属されてきたわけである。
上司は新しい所長を各取引先に紹介するも、先方は二人の所長に困惑気味。役職定年者のいる部署へ早めに後任者を送り込み、仕事に慣らすための処置というが、小さな部署の責任者交替に、七ケ月も前から後任者を送って慣らす企業があるだろうか。それとも、半年以上やらないと、職歴、社歴二五年という後任者でもつとまらないほど難しい部署だったのだろうか。
万一そうであったなら、現存責任者がいる間は黒子となって業務を習わせ、交替があって初めて表に出すのが常識ある人事ではあるまいか。ちなみに他社から誘われて同じ職責者として入社した私の場合は,引継ぎ期間は半月間、実日数は一週間足らずでした。この尋常でない早期人事配置に会社の意図を推し量り、管理職ユニオンに加入。
ギクシャクながら七ケ月後に役職定年を迎えたものの、処遇に関しては給与が基本給を中心にして,総額で二五%のダウンと連絡があっただけで、他は何もなく、後任は七ケ月前から決めて配置しながら,私のことに関しては何も決めていないのは、今後は一兵卒として働けということだなと解釈した。
お歳暮期間が過ぎて,年が明けても具体的に役職定年後の業務については、一切の話も指示もなく,自分なりに仕事を見つけて日々を過ごしている中、三月八日の夜、自宅に上司から横浜の子会社へ出向が決まり、三月一六日に社告が出ると連絡が入った。何の打診もなく一方的に決まったことだからという話に、憤藩やるかたなし。そしてカーッとする気持ちをおさえて,役職定年者に二五%の給与ダウンがある上、転居を伴う出向は少し酷であり,「子会社での仕事は何ですか。私が出向しなければならない必要性は何ですか」の問いに何も答えられず、決まったことの連絡をしているだけという始末。内容を何も説明せず,単に命令だからというのでは、この一年間の会社のやり方からみても,もはや使い捨てとしか映らず、「その話お受けできません」と拒否した。取り敢えず白紙に戻さなければと、管理職ユニオンの組合員なので、組合と相談して動きますと答えた。
この発言には、「それじゃ総務と一度、相談してみる」という返事だった。総務部長からの連絡は、「決まったことなので従ってもらうしかない。何やら組合と動くらしいが,勝手にどうぞ」。この三口で闘いが始まった。
■管理職ユニオンに加入
この時点で、管理職ユニオンの事務所を訪ねる。仲村さんからは「急ぐ必要あり」のアドバイスをもらい、団交の申し入れ、出向拒否の内容証明郵便など、経験したことのない労働問題なので、大袈裟に言えば、風雲急を告げるといった形容がピッタリの緊張であった。団交は会社とのケンカと言い聞かされて納得し、使うだけ使ったら用なしのやり方に闘志も湧いてきた。
第一回目の団交は、遠く本社のある藤沢市で行うことになり、会社側からお抱えの顧問弁護士、人材コンサルタント、担当専務取締役、総務部長、管理本部参与、人事課長という構えで,布陣を張ってきたのには驚きであった。対する我らは、仲村書記長、東京管理職ユニオンのNさんと私の三人。堂々と会社を追求、渡り合うもかみ合うことなく、応じなければしかるべき措置をとるという強行さであった。またもう一方では、大阪地裁に地位保全仮処分を申し立てたところ二回の審尋や証人尋問があった。
それらと並行してユニオンの組合員の応援を得、「解雇をねらった不当な出向を撤回せよ」と京都の百貨店前でビラまきを実施した。さらに管理職ユニオン・関西設立大会当日も大阪の百貨店前へ大挙してビラまき敢行。会社の本拠地から遠くの抗議行動と見てか会社の反応鈍く、それではと、夜を徹して走って行った藤沢の本社前、東京管理職ユニオンの仲間の応援を得て本社出勤時の抗議行動、設楽、仲村両ユニオン書記長の演説は迫力がありすごかった。その後、横浜の三ヶ所の百貨店前でも抗議行動を行った。
こうした中でフルに使用していた有給休暇がなくなり、一方地裁の判断は会社に落ち度はあるものの、裁判所としては認められずと却下。とりあえず赴任を余儀なくされる。これまでの行動から、会社は当人の赴任はもうないものと考えていたらしく、六月九日からの赴任を伝えた時は驚きを隠せなかったようだ。当初は、とにかく二・三日行って、すぐに病気欠勤で戻り、前にも増した抗議行動を予定していたが病欠では当人が動けず、また生活費の件もあり、当面赴任先で会社の出方、様子を見ながら今回の措置に対する異議を続けていくことにした。
第一ラウンドでは会社に軍配が上がり、出向先へ行ったが、あくまで自分への処遇に対して闘うための残された手段であった。当初何の理由もなかった出向の目的、必要性、本人の了解などは、本人の承諾がなくても当人の人間性、当社並びに他社での経験経歴を鑑み、営業の企画・促進、社員の教育・指導を託すに他にない、入社時の経歴書まで裁判に持ち出し、ホメ殺しに変わる。出向先は本社から要請があったから承知したまでという。出向先の職場はパート女性が二・三名でハムや惣菜を販売する百貨店内にある直売店、いわば売り子である。後述する理由でそれはできないとビラ等で訴えたこともあり、仕方なく資料作りのデスクワークをあてがわれた。裁判所で会社が述べた出向理由とは、かけ離れた雑用が毎日続き、そうした中、売店での退職者が出てくると、その後任に売店へ行けとの強要が始まった。
地裁も高度と判断した腰椎椎間板ヘルニア、脊椎管狭窄病で立ち位を主たる業務は無理という医師の診断書を見ながらも業務を強要する会社のあくどさ。激しい怒りを覚えながらもやれるだけはやってみる姿勢で従事したが、当然ながら体調悪化し、立ち作業の業務を完全に拒否した。それからは、会社のアナウンスする反会社人間、不良社員にさわらぬ神に崇りなしと、周囲の人達は遠ざかり、口を利かなくなり、一〇〇%敵の中、第一ラウンドの痕跡を第二ラウンドの対策のために振り返った。
■元の職場へ
辞令の出された一年目の四月に向けて、今までの会社の言葉、行動、陳述書の内容をチェックし、関わった人達に事実の認否等の確認を求め、問題が解決しなければ、本裁判も辞さないことを匂わせました。それは同時に第二ラウンドが始まる時が近いことを会社へ伝えることとなり、総務部長が私の所へ訪ねて来ることになった。
「元の部署に戻れる可能性は一〇%もない」「出向の目的・必要性などがいかに偽善に満ちたものであったことは、この一年間私がやらされた仕事から実証された。規則にうたわれている出向に関する覚書すらためされていない現状、私は振り出しに戻ってこの出向に関して問いかけるつもりです」「振り出しに戻るとはどういうことか」このような問答があり、約一ケ月後退職勧奨は認めないまでも、会社は私を元の職場へ戻す決定を下すことになった。元の所へ戻ったとはいえ、これで全て終わったとは思わない。これからも役職定年者は新たなリストラ対象者として標的になるだろうから。
■共感してくれる仲間
振り返れば、第一場面は全面的なユニオンのバックアップ。赴任してからは孤立無援・四面楚歌の苦しい一年でした。どうにか耐えられたのは、ユニオンの存在なしには考えられませんでした。よく言われますが、周囲から共感を得られる闘い、そうです、共感を得られるならば精神的にどんなに楽なことでしょう。ですが、私は100%敵の中でという状況で、逆張りの
戦法しかありませんでした。周囲が無視するなら、自分も公序良俗に反しない会社の諸規則には反しない範囲で、周囲を無視。彼らに自分たちの職場にはいない方がよいという環境をつくり、当人は辞めないしまた辞めさすこともできず、ましてや今さら他の部署への異動は困難。「ならば元の部署へ戻すしかない」という側面もつくり上げました。
私の場合、役職定年後の正式定年まで長くないという状況だったため、私なりの手段を講じることができました。会社の不当な行為には、闘う仲間の後盾があることを確信して、果敢に立ち向かっていきましょう。
|
| |
私たちは、あらゆる不公正・いわれ無き格差と戦います。
