人々の闘い
企業再構築のための希望退職者募集

プラスチック販売会社勤務山口弘宣(50歳)

■リストラの対象
リストラの嵐が吹き荒れる真っ最中の一九九六年八月から九八年八月までの二年間、会社の一方的なリストラに敢然として立ち向かった記録を報告することにより、現在会社と闘争中の人達、またこれから襲って来るであろうリストラに備え体勢を整えようとしている方々に、少しでも役立てばと思い、筆を執りました。時に小生五〇歳。
九六年八月  会社より全社員(約九〇名)にリストラ案の発表。内容こそ「企業再構築のための希望退職者募集」と穏便なものだが、この時すでに解雇対象者のリストアップはできており、小生もその対象の一人であった。
九六年二一月 企業規模を縮小し、社員約四〇名となるが、小生は頑とし「絶対やめないぞ」と突っ張る。中学・小学校の子供三人を抱え、退職すれば即座に生活は困窮し、また再就職先など容易に見つかるはずがないことは分かり切っていたので、とにかく頑張るしかない。
九六年三月 今月末で小生の所属していた大阪支店(本社は東京)の営業課は閉鎖するので身の振り方を考え、就職活動をするよう会社より通告される。小生は「絶対やめない」と再三突っ張り会社の方で就職先を斡旋せよ(関連会社等へ)と主張。会社も努力するが、自分でも仕事探しをしてくれとの返答。この時、社員三五名となり、小生ともう一人本社で頑張っ ている人間の二人が突っ張っていた。
九七年四月 とうとう会社に出社せず、仕事探しを開始。人材銀行や人材斡旋会社数社に登録し紹介を待つ。しかし、生活面で無収入は困るので、会社と交渉し、前年度年収ベースを保証する文書を取った。半年間の求職活動にもかかわらず、再就職先は見つからない(年収も勤務条件も現状と同等もしくは、それより上を探していたこともあって)
 
■転勤
九七年一〇月 社長交替。前社長はリストラを完遂成功させたとして、別の関連会社社長へ栄転。親会社の事業部長が当社の社長を兼任することになり、小生は東京本社へ転勤の業務命令をくらう。単身赴任を余儀なくされ、仕事の内容も営業職から管理部門のコンピュータ担当となる。恥ずかしながら、それまでコンピュータはおろか、ワープロすらさわったことのない小生にしてみれば、大変な嫌がらせであり、また早くやめろと言わんばかりの仕打ちであった。また、本社の人間は誰一人として小生と話をしようとせず、ワンルームの社宅に帰っても話し相手のいない単身生活の味気なさと惨めさをいやというほど味わうことになった。
しかし、ここで挫けてやめれば会社の思うつぼ。絶対に泣き言は並べられない。精神修行のしどころと心得て、コンピュータをマスターしようと一念発起。毎朝一時間早く出社、夜は残業してコンピュータと悪戦苦闘。その甲斐あって、三ケ月が過ぎるころにはコンピュータを自由に操れるようになり、周りの見る目が多少異なってきたことを感じる。
九八年三月 会社は合併し新会社となることが決定し、小生も解雇されずにコンピュータ担当として生き残ることになった。突っ張った甲斐があった。この時点で小生一人が頑張り通し、会社も一人ぐらいならましょうがないなと思うようになる。
九八年四月 合併し新会社として発足。社内にはうきうきした気分が漂っているが、小生は単身生活がいつ終わるのか全く見通しが立たず。生き残ったことは間違いないものの、家族と一緒の生活はまだまだ先の話。根気よく会社と折衝を重ねるしかない。
 
■逆境をバネに
九八年八月 粘り強い交渉の甲斐あって、やっと大阪支店へ配転するとの内諾を取った時には歓喜と虚脱の複雑な気持ちだった。しかし、二年間頑張り通したという満足感は何物にも換え難い自己の財産として残っており、会社に感謝(?)してもよいくらいに思えた。
以上経時的に述べてきましたが、教訓として次の事柄を会社に勤める皆さんに知ってほしいと思います。まず、ノントラブルの人には、リストラに遭わないように常日頃から社内の人間関係に十分気を遣い、必要な情報を仕入れておくことです。
不幸にしてリストラを食った人には、絶対に辞めると言わず、辞表は書かないこと。どんな仕打ちをされても堪えられるだけの精神力を付けると共に、逆境をバネに成長してやろうと思うぐらいにたくましくなって下さい。ご健闘を祈ります。

 
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