人々の闘い
内部闘争の末、工場閉鎖

建築材生産・加工工場勤務森本善幸(55歳)
 
■内部争いによる経営不振
私達は三〇年近く勤めてきました。会社はほぼ国内全域に営業所を配置し、生産部門は関東と関西にそれぞれ一工場といった規模で資本金一億強、従業員二五〇人といった中小企業です。建築材の生産、加工、施工を一貫とした責任施工が主業務で、私達は関西の生産工場に勤務していました。
一九八五年頃までは、当時のオーナー経営者に仕えてきました。経営者としての卓越したノウハウで組織とルールには厳しく、システム化された管理体制で、特に研究開発部門に重点がおかれ、従業員、特に管理職に対しては、厳しい面もありましたが、企業は発展し、未来がありました。また地域社会にも責献し地域と共に育っていくといった経営理念と哲学を持っておられ、私達も誇りに思っていました。
このような経営者ですから当時は労組の必要もなく存在もしていませんでした。企業全体にとっても、私達の工場は貢献度大で、企業の心臓部と言っても過言ではありませんでした。この当時の経営者が経営を続投すれば問題は起きずに企業は発展を続けたと想像しますが、世間の例に漏れず,同族企業特有の難点、同族間のテリトリー争いに、私達の尊敬する経営者は憂いをなし身を退かれ、これ幸いと、同族の野望が始まりました。まず,関東にある生産工場へ私達関西の生産部門から生産を徐々に取り上げ、設備投資も関東にのみ投資,関西を衰退,外部との企業戦争でなく、内部の争い。このような状況では経営もうまく行く訳もなく,まして労使間の信頼も亀裂が入るも必然、一挙に二つの労組が発足、春闘,夏冬の一時金争議はもちろん、関西の生産工場の生産を取り上げ、採算が取れないのは当然,今後の方針はと意見具申しても、経営方針は全くなく「閉鎖はしない。全社でかかえていく」といった具合。私達としても、「閉鎖はしない」の発言を信じざるを得ず、そのうち何らかの前向きな方針が出るだろうと甘んじては、目先の業務にのみ取り組み、年月が無駄に過ぎるばかり。しかも会社は毎期毎期赤字を計上。
そうこうしている時,九七年九月突然経営者が来場し全従業員を集め、私達の勤務している工場は,「採算が取れない。閉鎖し、売却して規模を縮小し、別の所に移転する」と発表しました。
今日まで企業にとって最も貢献し、まして関西の心臓部である部門を、いわば意図的(政略的)に関東に取りあげておいて、閉鎖とはあまりにも理不尽であり、人道上許せない。経営者が必死に再建に取り組み、従業員もその姿勢に感ずるものがあれば、理解もできないわけではないが、経営者としてあるまじき行為、許せるものではない。
私達管理職も今日まで隠忍自重してきたが、この間題は他の二労組に託す訳にいかず,九七年九月、仲村書記長を訪ね、今後の在り方、戦い方を相談させていただき,六名の課長職で「○○管理職ユニオン」を結成致しました。そして「工場閉鎖を撤回させる戦い」を約二ケ月,管理職ユニオンの方々に度々足を運んでいただき知恵を授かり、ついに同年二月には,「閉鎖はしないと言った約束は認める。経営責任も認める」といった回答で、閉鎖移転問題は白紙撤回させることになりました。
 
■工場の再建
私達は、次に打つ手はこのままでは企業全体が危ない。何期も赤字計上し,まして何ら再建に対する明確な経営方針も出せない経営陣。まず関西の取締役を退任させるため,私達の活動方針を立て、退任活動を団交も含め、ビラ撒き作戦を行いました。結果約三ケ月後の九八年二月、三名の役員は退任、新たに二名の役員が選任されました。
この二名の役員は、私達の勤めている工場はやはり関西にとって心臓部であり,何としても存続させようとの考えで、特に私達管理職とも何度も前向きな協議を行ってきました。しかし、今日君での経営の在り方の〝ツケが、あまりにも大きく、工場だけの問題でなく、企業本体の先行き、我々管理職の立場から分析しても、突破口なし。これ以上工場存続の戦いはプラスでないと判断した。
会社側も再度閉鎖・移転問題を申し入れしてきました。我々としても、「ヤムナシ」 と判断せざるを得ず、最後に残す道は転勤(通勤)するか、退社するか、将来の生活等々を考え抜いた結果、企業の前途等を考慮し、退艦すべし時は、今の決断を致しました。退職手続きは、会社都合プラス二割増しで妥結しました。今は晴耕雨読の日々を送っています。

 
私たちは、あらゆる不公正・いわれ無き格差と戦います。